raw

精神と肉体の展覧会

​co-program2019カテゴリーD 採択企画

『アプローチ』(『raw』~精神と肉体の展覧会~を観終えて)

 

 無音、

 大きく開いた空間に直線状の舞台が、客席を両端に追いやり、真っ直ぐに伸びている。

向かいの客席は煙っている。

 この空間を観るときには、この空間にしか目がいかないし、舞台中央にいる彼女を見るときには、

彼女や、その体に纏った色、その足元に積もった、彼女の身体から剥がれ出た、

彼女の一部や、頭を垂れた、背中を丸めた身体の形などにしか目はいかない。

 空間はどこまでも空々しくあって、受付係が即物的に動き回り、

観客が座席をもとめて交錯する様子など、なんら外の世界と変わらない。

 

 地下に埋まった阪急烏丸駅から覗く街並みは、自己を一切ひた隠しにしたくなる様な感覚を覚えさせる。

 

 でも、彼女は、人間存在としてそこにいて、皮膚感覚を延長する様に絵具を被り続ける。

 僕は彼女を知らないし、人間性に触れていないから、ただ遠い感覚がそう思わせるだけなのかもしれないが、

まったくもって「偉い」事をしている、象徴的存在に見えてならない。

 

 例えば、難しい治水をやり遂げた技術者を称える石像が、風雨や人ごみに晒されているような。

しかし石像と彼女では、決定的に時間の差がある。

 石像は過去の人間であり、偉業も過去の物。彼女は現在パフォーマンスを行なっており、まさに今、生きているヒト。

 しかしながら、やはり石像めいたイメージを彷彿とさせるのは、

端的に言って、頭から被った絵の具が発信するビジュアルによるものと思う。

 ここで一つ補足を加えると、

それは、絵の具という言葉の持つ機能的意味から遠ざかった存在に見える。

 「絵の具」と言うには即物的で、例えば、人の知覚する物質観を抽象化させたもの、と、言い変えることもできるかもしれない。

「彼女にとって」という主語が付きまとうが、

やはり彼女も現時間、確実に存在する「ヒト」だから、同じヒト同士では、共感という基礎機能によって、

その状態をたとえ仮想の中でも直に確認できる。

 そのビジュアルは、外見上ヒトを物質として認識させうるし、

又、意識的存在としてのヒトを限りなく抽象化させているようにも見える。

 動物的、物質的、人間的、といった、ヒトという存在に対する様々な感覚を、そのパフォーマンスから我々はまず獲得する。

 

 「裸になって絵の具を纏うまでは、生きている事を知らなかった」という彼女の言を、逆説的に捉えると、

「絵の具を纏うと、生きている事を知る。」ということになる。

生を確かめるべく、この行為に及んでいるとするならば、現在我々が多角的視点を獲得したという事実に、一つの疑問が生じる。

 彼女を取り巻く空間と観客の存在だ。

 

 場内に撮影許可のアナウンスが流れると、観客はすぐさまスマートフォンを取り出し、その光景、とりわけ彼女を写真に納めた。

そのボルテージは高まり、次々と客席から抜け出して、彼女の正面には、人だかりが出来た。舞台公演では、異例の光景だ。

 

 ここで、彼女に象徴としての役割を、観客が規定した。

 まだ公演は始まらない。

 いや、展覧会は始まっているのかも知れない。

 時折、求めるようにして絵の具を掬い取り、自分の身体へ、必然的に塗る。

この行為は、ある種の緊張感さえ、我々にもたらしている。

 彼女の「生きる」行為を、衆目の中で、直に、目撃しているのだ。

 

 音楽が、空間に現れた。

 そしてまた、観客と彼女の間に、一つの特異な存在が現れる。演技者だ。

 彼らは言語を放棄し、意味的表現を嫌っている。

彼らも、ある一つの意味で、一糸纏わぬ姿なのかもしれない。立ち並んだ姿から、非常の何かを感じる。

 やがて音楽が水のように客席を満たすと、パフォーマンスは始まる。

 黒々とした物質が、彼女と客席の間をうねるように歩いていく。

その存在は、次の瞬間明らかになってみれば、二人のヒトだった。死んでいた人間がさまようように、男女は周回する。

やがて二人のヒトは、一人のヒトと出会い、光を受け渡す。

得た。といってもいいのかもしれない。

光を得た一人は歩みだし、得られなかった一人は、ただそこに、手と足と頭をもったヒトとしてうねり続けている。

 

 驚くべきことに、その二人どちらにも、僕は共感の機能を働かせている。

いや、意味を概念化した言語を介さないから、大脳をパスして小脳や間脳の視床下部へ直接訴えかけられているような、

原始的コミュニケーションを求められ、それに応じてしまったのかもしれない。

 

そう、コミュニケーションを求められている。

 それは、公演という形態が規定した法であり、観客という役割を受け入れてしまった以上、逃れられない状況への固定だ。

演技者が非言語を選択した以上、(少なくともその時間に於いては)我々も非言語で臨まなければならない。

 しかしこれはある種当然のことかもしれない。

なぜなら観客は普通黙っているのだから。

しかし、その状況を逆手に取ったレトリックがここに存在する。

 好意的に制作側の意図を拡大解釈したように思えるかもしれない。

 

実際にもそうなのかもしれないが、開演時間を迎え、彼女と空間、演技者を認識した我々には、

ポジティブな思考を促す興奮剤がばら撒かれているように思える。端的に言って「わくわく」する。

 

 光を与えた一人のヒトを、別の演技者たちが取り囲む。そしてそのヒトを認識した。

 その中の一人の男が生活の中で、言い変えれば生活感を纏った体のままで光に触る。

彼は、その光を、まるで特別な拾い物をしたかのように、

逆に、取るに足らないものを忘れ去るように、ポケットへしまい込む。

 ここから、彼を取り巻いた世界のストーリーが始まった。

 彼は、色を纏った彼女に触れ、空間から存在を感じ取る。

 全く隔絶された二人の人間が、どのようにして足掻いて、生きてきたか、どんな絶望を感じていたか。

演技者によって作られた世界(ある所では、社会と捉えることも出来る。)が、二人の悲劇をグロテスクに描き出す。

 他人の存在を遠くからでも感じられる現代、しかしそれは、肉体的な柔らかさや、温度を持たず、

あるヒトを、機械的冷徹さで打ちのめす。また、死の実感を感じられなくなった人々の悲しさを感じさせる。

間近で行き交う演技者の一人一人に、だんだんと感情移入していくにつれ、彼の悲しさにも理解が及んでいく。

 

 墓場のシーンとでも言いたくなる場面がある。

物語が終わりにつれて、折り重なる人の掃き溜めが出来あがり、彼はその人間たちを目撃する。

 彼はその掃き溜めに自分との同一性を見出し、直感的に死を悟った。生への渇望は、その時に初めて生まれたのかも知れない。

 彼は走り回り、ありたけの声を絞って呼びかける。

 ここで、観客は初めて、彼の声を聞く。意思を聞く、と言っても良いかも知れない。

 呼びかけは虚しく、誰にも届かない。

 ここであえて、僕が感じた気持ちを言葉にする。

 「そんなに、そんなにしなくたって、いいじゃないか」

 それでも彼は走り回る。叫ぶ。痛々しいまでに。こちらの気持ちも掻き毟しられるようだ。

 しかしやがて、その想いと、実際的に行った”何か”へ、反応がある。人間たちは、動物へと立ち戻り、自分の死と、生を確かめる。

 彼の仕事は、此処で究極的に成功する。

 しかし、これは仮定かもしれない。

 この演技者達のように、我々もなれるのか、思考の種を与えられる様な場面だ。

演技者たちは、象徴である彼女に触れ、彼女は一人間として、彼らを受け入れる。

 肉体と肉体のレベルでは、暖かなコミュニケーションの輪が広がっていく。

 

彼が彼女に触れた時、また、演技者たちが彼女に触れた時、我々もまた、彼女に触れられる可能性を見出す。

 象徴として規定した彼女の存在を、我々自身が壊す。

 やがて、皮膚感覚で、隣の席の観客を意識しだした。

 肉体同士のコミュニケーションは、男や彼女が感じた生や死の感覚を、生身で感じる事につながった。

だからこそ、「怖い」と感じる場面も多かった。

 それが終極的に、彼や彼女に対する理解に繋がるかは分からないが、

皮膚感覚で感じたこの体験を、非言語で、無理解のまま留めておく事に、意義がある様に思えた。

 パフォーマンスの終わり、立ち並んだ彼と、彼女の居姿から、

「あなたたちには理解できないだろう」と言う台詞を聞き取った様な気がした。

 この壮絶な90分で、何を感じたか、改めて検証させようとする想いを、痛烈に発信した様に思えたのだ。

 

 

あとがき

 

 『レビューを』と言って頂いた今回の幸運には感謝したい。

大阪芸大舞台芸術学科で同級だった庄波希とは、共に舞台領域での作品制作を学んできた仲間だったから。

ただ、お読みになってわかる通り、この文章は明確にレビューの形を取っていない。

なぜなら、まず第一に、私は批評家ではない。

そして彼が、(私に都合の良いよう解釈すると)「言語やその他の方法で、自分の作品に客観的視点を得たい」と言っていたから。

 私にとって言葉は、絵筆のような存在であり、私は、下手なりにも、自分の作品を形作るものと捉えている。

ツールとしての言語は、ラベリングに代表されるように、その事の是非を顧みず、具体化、単純化してしまう危険性を孕んでいる。

 その論から、芸術領域において、言語化を求めない作品作りは多く、殊、身体表現に於いては顕著だ。

そもそも身体表現という言葉自体が、言語表現の存在を認識し、「そうでは無い」「別の」という意味合いを含んでいる。

であるから、このような文章にはご批判のこともあると思う。

しかし私にとって、言語化はラベリングではない。

ある時には、風景を切り取る芸術的手法であり、またある時は思考を掘り、概念の肌触りを得る行為だ。

 今回、レビューというより、どちらかといえば戯曲の形を取った。

私なりに、彼の舞台表現へ寄り添った形だ。拙文にここまでお付き合いいただいて感謝の至りだ。

拙文はraw(生)ではないが、彼らの意欲的な取り組みに、興味を持って頂けたのなら嬉しい。

そしてもし、まだ彼らの舞台を観ていないのなら、次の機会には是非、生で、体感してほしい。

 

(1月12日『raw』千秋楽を終えて 文:近藤輝一)