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「現在」という夜を行く

― 鑑賞後のささやかな手引として ―

ドラマトゥルク 石本興司

(大阪芸術大学 舞台芸術学科 准教授)

 『night ‐宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より‐』をご覧いただき、まことにありがとうございました。

 

 さて、タイトルの末尾に「より」とありますように、本作は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜(第4次稿)』を素材とした作品であり、原作とは似てはいますが別モノです。また、2017年の前作『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より』とも別モノです。これは、庄 波希(HI×TO代表)が大阪芸術大学在学中に卒業制作公演として創作した作品です。大病を患った直後、『銀河鉄道の夜』に惹かれた彼は、コンテンポラリーダンスと演劇を組み合わせたオリジナル作品を仲間とともに創作しました。実は、今回の企画はこの前作を下敷きにしてスタートしています。しかし、本作は結果的に、この作品とも相当異なるものになりました。この数年間で庄の創作スタイルが変化してきたことはその要因でしょうが、何より、これはコンテンポラリーダンスのあり方が導いた成り行きなのだと考えています。

 

 今回の創作過程では、多くのシーンで俳優やダンサーたちはデバイジングを用いました。「デバイジング」とは、俳優やダンサーのアイデアを活かしながら集団創作する方法のことです。アイデアの提出方法にはいくつかあるのですが、集まった俳優やダンサーたちは即興的で身体的なアプローチを好みました。プランを練ってから動くのではなく、衝動や感覚に突き動かされて動くような方法です。構成・演出の庄は、そのオファーを受け、少しずつ創作を前へと進めて行きます。ここには、それぞれの〈個〉としての〈からだ〉を表現のもとにしているコンテンポラリーダンスのあり方が共有されているように見えました。

 また、コンテンポラリーダンスはその名の通り、時代の流れの中を現在進行形で進むものです。原作では、〈夜〉とは〈夢〉の時間だと言えそうですが、本作では、〈夜〉は〈現在〉のメタファー(隠喩)です。作品名『night』はこれに由来します。「銀河鉄道」という車両の形象を持たない本作は、作品ごとその〈夜〉を走ることを選びました。〈現在〉という〈夜〉を、生きている〈からだ〉でもって進んで来たのです。からだから発想し、からだで描き、からだに起きることを観察し、からだでアイデアを交換する、そういったことを繰り返して来ました。このような創作行為を〈身体性〉の追究と呼ぶのなら、本作は『銀河鉄道の夜』をテコにして〈身体性〉を追究した作品だと言えます。〈身体性〉という灯りで足もとを照らしながら〈夜〉という〈現在〉を進んで行く、このような創作過程が「結果的に」新しい『銀河鉄道の夜』を生み出すことになったのです。

 

 ここで、ざっと本作をふりかってみます。

 はじまり、暗がりの中に小柄な人物が登場します。「ジョバンニ」です。この短いシーンの最初のせりふは「カムパネルラ」です。これはイタリア語で「小さな鐘」のこと。鐘の音が彼方へと広がっていくように、いたって平凡な人物であるジョバンニの旅がここから始まることを暗示しています。一方、おしまいには「ぼく、会えるだろうか」と問います。このせりふは原作にはありません。それにしても、彼はいったい何に会おうというのでしょうか?

 続くシーンは、ダンスによって描かれる「銀河の祭(ケンタウル祭)」です。ダンサーたちは町の人たちのようでもあり、同時に銀河を構成する物質やエネルギーのようにも見えます。原作では、この祭は銀河鉄道の旅の途中にもあらわれており、すでにジョバンニの夢が現実に浸入していると見ることもできそうです。

 その後、「午后の授業」「家」「牛乳屋」と続きます。ジョバンニはどのシーンでも、その場とうまく折り合いがついていません。特に牛乳屋らしき人物たちとはコミュニケーションがほとんど取れません(ちなみに、ふたりの俳優はろう者です)。これら〈昼〉の世界ではジョバンニは状況に溶け込めず、悶々としています。〈個〉であることがそのまま〈孤〉となっています。ここには現代社会における人間のあり方についての我々の問題意識が反映しています。

 それらを経てジョバンニはつぶやきます、「なんべんさびしくないと云ったとこで、またさびしくなるにきまっている。けれどもここはそれでいいんだ」。そして、続く「活版所」で賢治の詩『永訣の朝』が紡がれます。『銀河鉄道の夜』の執筆動機がこの詩で詠われた妹との死別であるとする説は幾多もありますが、これらのシーンにおいて、ジョバンニの背後に賢治の影を見ることができます。どこにでもいる平凡な人物であるジョバンニは賢治の後見を得て銀河の旅に臨むことになります。

 そして、「銀河ステーション」のささやきが聞こえ、〈夜〉の世界へと移っていきます。まず、ジョバンニとカムパネルラの前に現れるのは「鳥捕り」です。ジョバンニはやりとりを試みますが、要領を得ません。彼も〈個〉であり〈孤〉なのです。そして、にわかに苹果(りんご)の匂いがして、巨大な釜の蓋が開くように深い〈夜〉がその姿を現します。慄然とする、現代世界の〈負〉を写したかのような光景です。

 やがて、タイタニック号の沈没により溺死したと思われる三人が登場します。ジョバンニは「青年」に起きた災難を聞き、「灯台守」が配る苹果を受け取ります。このとき、ジョバンニの中で強い何かが芽吹きます。おそらく「サソリ」は、そんなジョバンニが生み出した〈祈り〉や〈願い〉のひとつの形です。

 旅の終わり、ジョバンニは「たった一人のほんとうの神様」について青年とことばを交わしますが、齟齬が残ります。さらに、これからもともに進んで行くのだと思っていたカムパネルラと別れます。そのとき、宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』の一部が唱えられ、即興的なムーヴメントへと続きます。『農民芸術概論綱要』とは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」で知られる芸術論です。やがて、「求道すでに道である」「永久の未完成、これ完成である」というせりふの直後に現実の夜へと変転します。

 ここまでの旅を通してのジョバンニは〈傍観者〉あるいは〈観察者〉です。観て、経験してはいるのですが、自らは何のアクションも起こしていません。現実の夜では、すでにカムパネルラが逝ってしまっています。冒頭と似たシーンが繰り返され、ジョバンニは再び「ぼく、会えるだろうか」と問います。

 

 ひとまず以上ですが、「結果的に」、ジョバンニは必ずしも少年である必要がなくなりました。また、〈個〉であり〈孤〉であるジョバンニ同様に、〈夜〉の住人たちも〈孤〉から出発しているという解釈を我々は選びました。そして、何より、旅の終わりにジョバンニが学んだことは、ひとは個を超えて生きることができるのだということだと発見しました。もしくは、そのような〈祈り〉や〈願い〉を失わないという態度だと信じました。繰り返しになりますが、「ひとは個を超えて生きることができる」という思いは、コンテンポラリーダンスのあり方が導いた成り行きなのです。

 

 ところで、「ざっと本作をふりかえる」と言いましたが、それはこれを書いている8月17日でのことです。18日と19日にまだ稽古を残していますので、みなさんがご覧になったものには、これとは異なっている部分があるかもしれません。しかし、『night』は〈現在〉という夜を行くものです。「求道」は続きます。ですから、そこはどうかご容赦ください。我々としては、ご覧いただいた皆さまそれぞれに、その瞬間、瞬間に何かを感じていただけたなら、それにまさる喜びはありません。

−僕らが走らせたダンスの旅−

庄 波希   演出・構成

 20歳の頃、家族の死と自身の罹病体験の直後、『銀河鉄道の夜』に惹かれました。その当時、僕は大阪芸術大学に在学していて、その頃から「身体」と「命」を同義的に捉えたような舞台作品を創作し、発表してきました。そのひとつである2017年に上演した『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より』は、当時の仲間達(同級生)と共に創造し、僕にとって、演出家やダンサーとしての人生の始まりをなす作品のひとつでした。そして2023年の夏『night 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より』へとリニューアルされました。いま当時の仲間も集結し、再創作された『night』は、僕を様々なことに接続してくれるダンスを扱って、HIxTO(ヒクト)で再び走り出しました。

 

① ケンタウル祭

 朝のような時間。ケンタウル祭の準備を行うような人達(ダンサー)は、早いスピードに合わせて、今夜の準備をします。ダンサー達は、顔を押さえたり、チョキでお腹を切ったり、本を開いたり、拳を匂ったり、踊っています。これは全て僕が罹病経験した時の行為や体験そのものからサンプリング(抽出)した動き(踊り)です。今となっては特別なあの日がなければ、この舞台作品も生まれなかった。と同時に今夜待ちに待ったケンタウル祭の日でなければ、ジョバンニはカムパネルラとの別れはこなかったという想像も膨らませます。ですから、この冒頭から「night」の旅はゆっくりと始まっているのです。

 

② 苹果の匂い

 「なんだか苹果の匂いがする」と嗅覚を使ったカムパネルラがジョバンニに問うシーンから私達は目や頭だけでは追いつかないような世界を体現しました。青い服のダンサー達は、揉み合い、戦い、厳しい体制を取りながら踊ります。これは次に登場する青年とカオルとタダシが体験したタイタニック号の沈没のようにも見えるのです。ですがそれ以上に、舞台上のダンサー達が目的を持って踊り動く中で、スムーズにいかないストレスや障害を感じています。これは低い姿勢を意識した動きの負荷を扱った振付で構成し、ダンサー達が体現する姿勢そのものが、ジョバンニの身体性に大きな影響を与えました。また私たち世代の課題のような、過剰に可視化された情報による身体性の欠如を意識しています。

 

③ 朝の気配

 ジョバンニはカムパネルラの死を受け、身体を通って今なにが自分の中で起こっているのかをただただ感じています。それは悟りのようなことではなく、出来事から目を背けない勇気と希望を持ちました。身体知(身体を意識し、身体から人間を理解する)を置き去りにしないこと、銀河での様々な人達の魂のような"からだ"との出会いは、ジョバンニにそのような在り方を提案しました。目の前に存在するフードを被ったダンサー達は列をつくり、横と上と下と他者と繋がりながら、一歩踏み出して身体を動かし、身体の中から「あー」と音を鳴らし、列を動かします。この音と動きは「night」を70分進んだ28人の演者がしっかり身体を感じたことで響き渡る、生の身体の表現(ダンス)だと思っています。

 

 『night 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より』をご覧頂き、本当にありがとうございました。きっと深刻な話など、難しく提案したい訳でもなく、このアミティ・ベイコムホールに人が集まって体験したことが、大人や子供も関係なく、他では味わえない記憶になれば僕たちは幸せです。またお会いできること、願っています。

上念省三​  演劇・舞踊評論家

ほんたうの幸せが、切迫している。

 

8月は悲しい月だ。多くの人が死んだ。星祭りを七夕の別名と解せば、旧暦で8月ということになる。人が星になる時季だ。

 

星になれるのか。なれるさ。人は必ず何かしらのまことを抱えているから。人の数だけ、星の数だけ、まことがあるはずだ。重いことだ。できることなら、そのまことをあらわにする機会に恵まれ、それが誰かに伝わる道筋を見つけられるといい。なら、幸せなことだ。

 

この「銀河鉄道の夜」と呼ばれている作品をもとにした「night」という舞台は、一般に銀河鉄道ばかり重視されるのとは異なり、夜に力点を置いている。夜、宇宙の夜には、光も温度もないそうだ。宇宙の夜には、声は空気を震わせないし、笑顔も涙も届かない。

それをさびしいと思うだろうか、それとも、安らかなことだと思うだろうか。ぼくは、安らかだと思うくせに、とてつもなくさびしくなるだろう。あわれな奴だ。

 

作品の時間の流れの中で、複数の視線が一つの方向となり、シュルシュルとささやくような擦音が聞こえてくる時間がある。出演者の存在のベクトルが一つになり、存在を構成している粒子が一つになって何かに向かってたてる音だ。自らたてる音は、聞こえるはずだ。宇宙の夜に、自分の鼓動や血流が聞こえていることを、想像する。

視線は眼から発せられている。彼ら彼女らの眼があまりに透明なので、光は分光できずにとまどっている。光が光であることにとまどっているから、見えるはずのものが見えず、聞こえないはずの何かが聞こえてしまう。言葉でない何かが聞こえることを、想像する。

少年のような少女のようなその者が、「水筒を忘れてきた」と言っているのだが、それとは違う何かが聞こえてくる。たとえば、「ほんたうの幸せから、ぼくは遅れてしまつているのかもしれない」というような、言葉でなく、その焦りと悲しみが。それは、あくまで透明で、無音で、本当に見えても聞こえてもいなくて、何なんだろう、これは、その者の体内から直接こちら側の内奥に響きかけてくる、それこそほんたうの言葉というものか。

 

透明さとは、彼ら彼女らの本来の内面であることを超えて、今回偶々のようでいて必然的に集まった相互の関係の中で磨かれた珠のような、そういうものの存在の形態だ。

それは、ミヤザワケンジという誰かの精神が希求したものであり、それに由来するものであり、演出の庄波希を経て、ジョバンニやカムパネルラのありようそのものである、そういうものだ。

それが現実化しているということは、一つの驚異だ。

 

腕が形なす弧の美しさに目をみはった場面があった。子どもらの命を救うために、他の子どもらを押し退けることができるかどうか、煩悶、反問するタイタニック号に乗り合わせた家庭教師の腕の弧。思いが直進できないために、腕の行く方がそのような形をとってしまった。美しいと思った。悲しかった。

それを舞台の端からじっと見ているカムパネルラがいた。その視線が何を意味しているのか、問うこと自体が無意味だと思った。その無を埋めるために、ぼくは人生のすべてを擲つかもしれないと思った。そのような人生を送りたいものだと。

 

もちろん彼は、事故だった。人はその事故に過剰に意味を与えようとする。意味は言葉になった途端に一面的になり、軽くなる。そうでない言葉をもちたい。だから、ここではみんな踊っている。踊りは楽しい時のためだけではない。感情のない踊りもある。意味のない踊りがある。

 

一人が、あるいは一列になった人たちが、声を出している。

あーーー

「あー」としか聞こえないのに、ほんたうの言葉を受け取ろうとしている「私」が、其処此処にいるようだ。

身体の表現とは、そうあるべきだったんだ。表現しているのではない。はからずも、そうなってしまう身体。そこには億万の何かが潜んでいる。そうあらせるために、何が必要だったのだろうか。

何かを享受するとは、そういうことだったんだ。見たり聞いたりしているのとは、別の何かを受け取りながら、元の何かもちゃんと受け止めている。

あーーーーから受け取る何かは、無限の何かだ。

舞台袖で叫ばれている、よく聞こえない言葉は、無制限の豊饒だ。

踊りの一つひとつの振りから何を受け止めるべきか、未だにぼくはわからない。時々、一瞬一瞬が自身の中で折り重なって、別の何かに醗酵だか醇化だかすることがある、あるといいなと思う。

それには、少し角度が必要だ。その傾斜が時間を激しく流し、空間を少し歪める。その激しさと歪みが、言葉や動きの切迫となる。「何が幸せかわからないのです」という叫びは、切迫している。それはほんたうのしあはせを希求しているから、叫びとなっている。

 

この劇の時間の蓄積の中で、ぼくたちはいつしか、この舞台の上の彼ら彼女らと共に、ほんたうのしあはせを希求する。叫びたくなる。

あーーーーー!

と。

演出・構成

 

出演

ドラマトゥルク

制作

子どもチラシデザイン

運営アシスタント/グッズ監修

衣装製作

​ヘアメイク監修

照明

音響

舞台監督

記録撮影

フォトグラファー

​ドキュメンタリー撮影

協力

庄 波希

 

天野 朝陽 

石田 竜士(手話エンターテイメント発信団oioi)

伊藤 朱音 

伊東 由希子 

井場 美穂 

岩本 康平 

えとう みなみ(松竹芸能) 

衛藤 桃子 

岡﨑 伸彦(手話エンターテイメント発信団oioi)

河合 日菜 

川上 真 

小堀 愛永 

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