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舞台  performing arts

2020年 1月9日-12日

raw
 精神と肉体の展覧会

舞台作品『raw -精神と肉体の展覧会』

【Co-program 2019カテゴリー D「KACセレクション」採択企画】

   作品概要  

ダンサーと美術家の共同制作による“生身”を使った身体表現パフォーマンス。

纏う身体と舞う身体。身体から届けるクールなダンスとアート空間。

正にこれは、人間の身体を使った精神と肉体の展覧会だ。

​   ステイトメント  

私は癌と診断された入院生活の中で
身体よりも心が先に死に向かいだすことを知った。
私は家庭環境が原因で
裸になって絵の具を纏うまで生きている事を知らなかった。
私達にとって死が待ってくれている事は
とても安心できる事だった。
死ぬ為にこの身体と共に生かされている。

死ぬ為にあるこの身体をどう使うのか。
精神と肉体の可能性を信じ、身体を動かし、他者を纏う。
その中で少しだけ「死」を覗ける気がしてならないのだ。

私達はまだ『生身』に出会っていない

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   クレジット  

演出・振付 庄  波希


空間美術  新宅 加奈子

出演

井場 美穂、黒田 健太、小堀 愛永、児玉 泰地 

庄 波希、新宅 加奈子​

日置 あつし (友情出演、Daniel (友情出演)


ドラマトゥルク             ハルヒ
テクニカルチーフ   杉本 奈月(N2)

ステージマネージャー     川上 真

広報 松村歩美

​​

主催  HI×TO

共済    京都芸術センター

日時 2020年 1月9日-12日
会場 京都芸術センター 講堂

 ​   「rawという作品について」 対談インタビュー   

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聞き手:箕浦 慧(アートコディネーター)  

場所:京都芸術センター
​撮影:竹崎博人

(箕浦)本作品のダンサーであり、演出・振付を手掛けした庄波希さん。空間美術を担当し作品中で全身に絵の具を纏うパフォーマンスを行った新宅加奈子さん。聞き手は、京都芸術センターの箕浦慧です。よろしくお願いします。 若手のコンテンポラリーダンスの舞台は、一時間くらいの作品が多いってことなんですけど、結構、90分のランタイムっていうのはどっしりした感覚ではありました。生きる死ぬっていうところは、題材にしてるっていうのはまあ、聞いてわかることだし、もちろん見てもそれが伝わってくるんですけど、もうひとつ、えー……見方を入れるのであれば、自分が生きていることを、こう、なんだろう。自分と他人とがどうやったらわかるんだろうっていう。自分が生きてることって本当は伝わってないのかもしれない。それを伝えるのは、どうしたらいいんだろうっていうようなまあ、レイヤーが見える気がして、自分が生きてることを伝えようと苦悩したり、挑戦したりすることってどういう風に捉えてますか。 (庄)わかってないんじゃないかなあとかも話してましたけどね。僕たちがそもそもこの社会、この世界に、この20……同世代、20代前半がこの世界に生きているっていうことを知らずにしてここまで育ってきたっていう感覚のほうがすごく大きくて。例えば、中学生のときから携帯があって、いつでもだれとでも連絡が取れたりだとか。高校生にあがっていくにつれてSNSでなんでも表現できちゃう。ことばで何でも言えてしまう世の中で、この世界の中に自分たちがリアルに存在しているという感覚は一度も感じたことがないんじゃないかなっていうもとで作品を作ったっていうのはあります。 (新宅)その感覚は私にもあって。その、なんだろ。この舞台ってちょっと哲学的な感じのことを言うと、なんか、ビオス的な生とゾーエー的な生。人間的な生き方と、動物的な生き方っていうのが、すっごい根本と混ざり合っている90分なのかなって思っていて、ただ、そのそもそも同じ生だとしても、さっき波希くんも言ってたみたいに、生きている感覚とか、その、なんだろ、実体感はどこでわかるのかなってすごい思ってて。それをこの90分で、なんか、公演をつくる、構成することで、なにかこう……生と死、まあ分けなくていいんだけど。そこをなにかこう、人間的な生なのか死なのか、動物的な生なのか死なのか、それとも生命体としてのものなのか。なんか、そういったところを表現しているのではないかな……と思います。 (箕浦)うんうんうん。そのさっき話に出た、知らない人とつながれる、なんでも表現できてしまう世界っていうのは、実体がなくても、身体的な実体がなくても、SNSにある種の表現をすることができるっていうこと自体が、今の現代のわれわれの野生だとしたら、人としての実体っていうのはどういうところにあるんだろうっていうのは、たしかに見ててすごい思ったんです。その中で、人が描かれていると思うんです僕は。たしかに特殊効果の多い舞台ではありますよね。スモークたいたり。 (庄)まあそうですね。 (箕浦)インスタレーションとしての蛍光灯が屹立していくとか。映像も若干使われたりしますし。なんらかの技術とかの中で、やっぱり人が描かれている気がして。その人っていうのもどういう筋書きとか流れを持ってこの作品は描こうとしたのか。 (庄)なんか個体として存在している人が、90分という時間の中で、個人に見えてくる瞬間だったりとか……。 (箕浦)個体と個人の違いってなんですか。 (庄)身体が物質として扱われるっていう状態から、精神が肉体に入ってきて個人へと変わっていくっていうのが、大きな流れの中で構成していきたいなって思った部分ではあります。 (箕浦)新宅さんとしてはそこはなんかコミットしてる部分っていうのは。 (新宅)アクセプトの段階で、何時間かわかんないくらいすっごいディスカッションして、それでふわっと出てくるキーワードとかを聞いて、じゃあちょっとそれやったらもっとそのまま置いておこう、肉体を置いておこうとか。 (箕浦)ああ、そういうことですかそういうことですか。 (新宅)最後にそれを肉体をほんとに物質化しようとか。最後蛍光灯とか。 (箕浦)だから身体を物質として置くのも、それはある種の空間美術だし、今回はダンサーが開演前から床に置かれている、ダンサーの身体が置かれている状態っていう。そうやって考えると、新宅さんは自分の身体が物体としての身体に絵の具をかけることで、そこに精神を埋め込んでいくということともつながるというわけですね。 (庄)そうですね。 (箕浦)このパフォーマンスの中で新宅さんは、この椅子に座ってる、すべて服を脱いだ状態で、素肌に絵の具をひたすらかけていく。7人のダンサーが90分間、10個くらいのシーンがあるんですかね、踊りきっていくっていうことがひとつのパフォーマンスで、つくっているわけですけれども。このパフォーマンスの筋書きとか、具体的な制作者の意図みたいなところはありますか。 (庄)意図……。社会をこの身体でどう生きていくのか、みたいなものが。 (箕浦)ああ、これがテーマ。ユニットのテーマなわけですね。 (庄)かなり大きなテーマで、お互い表現の媒体にこの身体表現が存在していて、僕たちがこころや脳以外でも、この肉体でどう、身体でどう、この社会を生き続けていかなければならないのかっていう、生きている内。っていうのがすごくテーマで、だからどうやって感じれば少しでも自分たちの世界が広がるのかなあみたいなところはすごく大きな筋書き。 (箕浦)どんどん……なんていうんでしょうね、難しくなるというか。いろんなことを知れば知るほど、社会っていうことでくくれなくなっていく中で自分の位置をまず確かめて、そこから社会を見定めていくっていう態度はやっぱりすごく大事だし、それができるような作家がどんどん現れてくるといいなって僕は思うんです。rawに関して、「生っぽさ」っていうことをテーマにしていると思うんですけど、ここについて、僕作品を見て、汲み取れたところと汲み取れなかったところがあって、生々しさ、っていうのを考えると、いろんなことが起こるっていう。普段以上にたくさんの出来事が起こっているようなもんじゃないですか、舞台って。そういうところで、生々しいは生々しいけど、ある種持ち込まれた情報だなっていうところは感じたんですけど。このrawに込めた、庄さんの根源的な思いっていうのはなんだったんですか。 (庄)動きの中で生々しさがどうとかっていうわけではなくて、例えば僕が新宅さんに触れたときに、この床に触れた感覚とは絶対違っていて、その感覚がきっと次のダンスにも影響していると思うんですよ。そういったところはかなり意識して方向性を立てていったっていうのはあります。 (箕浦)今回舞台をやってみて、新宅さんは自分の創造性で変わった部分ってのは。 (新宅)感覚的な違いはほんとにすごくあって。絵の具を被ると、簡単に言うとトランスしている感覚があるので、すごくぼんやりとすぐに時間が過ぎ去っていく。なんですけど、ダンサーの方が4人ここに集まって、うわあってなっていくときに、そのすごくセンシティブになっている皮膚上の感覚っていうのがやっぱりこう、なんか身体がすごく拡張されたような感覚がほんとに顕著に表れて。きっとその触れた身体がもう私の身体になっている感覚があります。だから、個体じゃなくなっている感覚。個から逸脱してて。 (箕浦)個体でも個人でもない。 (新宅)ひとりの人間としてもないような気がする。概念的な気持ちになります。 (箕浦)今のパフォーマンスで圧倒的に繋がったこととか、rawについてもこのパフォーマンスのこんなところで、新しく生み出した関係っていうのはすでに常に出てますか。 (新宅)すごいシンプルですけど、いつもはひとりで3~4時間くらい絵の具被ってて。これはひとりではできないなって。ほんとに当たり前みたいなこと言うんですけど。じゃあなんでひとりでできないかっていうと、ひとりだと社会じゃないと思ってて、私はふたりから社会なのかなって。きっとここにはもう社会が生まれていて、その感覚はすごい刺激的だったんです。 (箕浦)じゃあ最後に、raw、これで今日3日目ですね。今日と明日で一応この芸術センターでのシリーズは終了になると思うんですけど、今後なんか考えてますか。 (庄)ヨーロッパやります。嘘です。(笑) (新宅)すごい。めっちゃ返答が速かった。(笑) (庄)いやわかんないですけど。 (新宅)いややりたいです。 (庄)いや、まあでも、なんだろう。普通にいったん出演者もそうですけど、いったんたぶん持ち帰って、かなり考えると思います。終わった瞬間に。そこまでが、それが終わるまでがrawだと思っていて。 (箕浦)ひとつ、お客さんも一緒だなって昨日感じで。いったん持ち帰るべき。 (庄)べき、作品。 (箕浦)センセーションがこう、あるっていう。 (庄)あると思うんで、それが一年二年、わかんないですけど、一か月二か月なのか。その時間とともにちょっと見えてくるものがあるのかな。 (箕浦)さっき新宅さんが言っていた社会っていうもの、自分のパフォーマンスの中に置き換えて、っていうようなことを僕としてはすごい期待してて。rawっていう作品の枠組みの中か外かそれはわからないですけど、新しい力と目標というか。モチベーションですよどっちかっていうと。これから見えていくといいなあと思います。 では終わりましょうかね。(笑)頑張ってください。 (庄)いやがん……はい。 (箕浦)それでは今日はこれくらいで。ありがとうございました。 (庄、新宅)ありがとうございました。

​   劇評                      

宇都宮 壽 氏  

学芸企画員

主幹学芸員

大分県美術館

『raw -精神と肉体の展覧会-』

ダンサーと美術家のコラボレーションによる身体表現パフォーマンス「raw 精神と肉体の展覧会」が

2020 年 1 月 9 日(木)~12 日(日)の 4 日間、京都芸術センターで行われた。

そのパフォーマンスは、 「人間の生と死、肉体と精神の存在」という全ての者に共通する本質的なテーマを題材にしたもの。

彼ら がかかげる“raw=生、生身”による圧巻のパフォーマンスが毎夜繰り広げられた。

京都芸術センターは、かつて小学校として、多くの子どもたちが学び、巣立っていった場所。

その建物 の講堂として使われていた空間が、今回の会場である。

公演開始 20 分前、会場に足を踏み入れると、 中央の縦長のステージの中央に首を傾げ、椅子に腰かける、

髪の毛から両足の爪先まで全身赤っぽい 人の姿が見える。

白いシートに覆われたステージ上には、黒い衣装を着、横たわる女性や黒い布をのせ た大小二つの塊がある。

公演開始のアナウンスとともに、会場は暗くなり、静かに音楽が流れ始め、

ダンサーと美術家の共同制作による“生身”を使った身体表現パフォーマンスが始まった。

ステージ中央では、終始首を傾げた女性が無言のまま椅子に腰かけ、時折、足元の円筒状の容器に 手を伸ばす。

その手は、赤や黄、白の絵具を手のひらに掬い、自らの頭や顔、身体に塗り重ねていく。

ステージ上やその周囲を黒服の 5 人の男と 2 人の女が、うごめき、からみあい、走り、跳ね、動かされ、 止まる。

一言も言葉を発することなく、ただひたすらに繰り返す。

最後に、絵具を纏う女性と 7 人の男女 の肉体が交わり、幕は閉じられた。

今回、この作品を企画したのは、振付演出家やダンサーとして活動する庄波希と

全身に絵具を纏うパフォーマンスを展開する美術家の新宅加奈子、

関西を拠点に国内外を問わず活動する二人のアーティストだ。

私は癌と診断された入院生活の中で身体よりも心が先に死に向かいだすことを知った。

私は家庭環境が原因で裸になって絵の具を纏うまで生きていることを知らなかった。

私達にとって死が待ってくれている事はとても安心できる事だった。

死ぬ為にこの身体と共に生かされている。

死ぬ為にあるこの身体をどう使うのか。

精神と肉体の可能性を信じ、身体を動かし、他者を纏う。

その渦中で、あの時とは違う「死」を覗ける気がしてならないのだ。

私達はまだ、生きている事を知らない。

-“「raw 精神と肉体の展覧会」 ステートメント”より抜粋

このステートメントにあるように、二人には、偶然にも同じような体験や問題意識があった。

そのことが、 今回の企画の出発点となった。

その体験や問題意識を一個人のものとして留めるのではなく、

現代に生 きる我々人間の「生と死、肉体と精神の存在とは何か」いう普遍的なテーマとして問うた。

この世に命を授かった者誰しもが必ず迎える「死」。

死に向かう有限のものであり、不可思議で得体の しれないもの、

だからこそ、その「生」は、尊く、美しい。彼らの「生=raw」の姿が、私たちにそのことを想起 させ、揺さぶる。

1時間半におよぶパフォーマンスを終えた彼らが見せた、心の奥底から溢れ出る、爽やかな笑顔。

こちらの心まで洗われる素敵な笑顔だった。

ダンサーと美術家の共同制作による“生身”を使った身体表現パフォーマンスという、

彼らの類まれなる パフォーマンスのさらなる飛躍に、これからも注目していきたい。

​   劇評                      

上念省三 氏​   演劇・舞踊評論家

■庄 波希+新宅加奈子『raw』~精神と肉体の展覧会

 「raw」、生々しさとでも言っておこうか。それを身体の存在や表現であらわにしようとする。一方は身体が動くことで、いわゆるダンスと言われる。一方は、全身に絵の具を纏うことで、ボディペインティングと呼んでいいのだろうか。身体はそもそも生々しさの基点であり、その始まりも終わりすらも生々しいはずなのに。この世界ではいくつもの層に蔽われている。
 開場時から、講堂の中央に縦長に設置されたランウェイのような舞台のほぼ中央に、空間美術家の新宅加奈子が全裸で絵具まみれで座り、時折足下の塗料缶から絵具を自身にかけている。ところどころ素肌も見えているし、胸のふくらみや太ももも露わだ。開演前は撮影可能とされていたので、やたらにカメラを向けている男がいて、いらつく。そのどうにも言い訳しようのない猥褻な視線と態度の存在が、否応なくぼくをも共犯者に巻き込んでしまうようで、とても不愉快だ。その男は、自分の欲望か好奇心の生々しさをストレートに露わにしている。ぼくにはそんなことはできない。しかしその生々しさがぼくの何かを浸蝕してくる。
 この強烈な生の身体の存在によって、危惧されたのは、ダンスが背景化してしまうことだった。これに、動く身体は匹敵できるのか。あるいは、匹敵というのではない別の形での共存が可能か。
 チラシには、主宰で演出・振付の庄波希が癌で入院していたと書かれている。庄の病いについて思いをめぐらすと、新宅の絵具にまみれた身体がはちきれるように生命感豊かなものに見えてくる。チラシには、「家庭環境が原因で裸になって絵の具を纏うまで生きていることを知らなかった」という新宅の言葉が紹介されている。そこから眺めると、動く身体がとても健康で溌溂としているように思われる。
 修道士のような黒衣の人々が現れ、のたうつように動いたり女(小堀愛永)を傾けたりする。庄が新宅や椅子に触れ、絵具を掻き剥がす。一連の動きや配置は何かの宗教の儀式のようだ。ランウェイを歩いている中の一人が倒れても、他の者は冷淡だ。変な歩き方をしたり側転したりする者が出てくるのが、過剰だ。新宅を核にしてはいるが、彼女は神のように支配・君臨して定位しているわけではなく、他のダンサーたちは並置されているし、動きや位置といったいろいろなモチーフは不安的に宙ぶらりんになっているようだ。
 暗転のあと、映像が流れ、暗いランウェイで庄が強い緊張感を帯びて激しく動くのが印象的だったが、それ以後の各所で展開する動きとの関連性が見つけられない。時間自体が断裂しているのか、孤立しているのかとも思われたが、やがて動くことそのものが何ものかの喩であるようにも思えてくる。
 その後新宅の座っていた椅子から庄がブレスレットのようなものを取り出し、腕につけて振り回して叫ぶのも、生命の発露という現象を表わすものだったのだろうか。そして最後には蛍光管がエクスカリバーの剣のように取り出されて神話的な色が濃くなり、全員が新宅に触れて絵具に染まる。
 椅子に座ったまま位置を変えない新宅と、その周囲をほとんど意味が辿れないような動きを続ける7人の男女。そのコントラストは生という世界の中で際立つものだが、その背後に双方の消失という事態が潜んでいることを予感させるのが、新宅の存在だったように思う。裸の状態から絵の具を纏うことは、衣裳を身に着けることとは別種の「覆う」行為だが、新たな皮膚=表面を生成することでもある。表面でもある皮膚は、身体の内側と外側を隔てる薄膜であり、外側でも内側でもある。さっきまで外側だった絵の具が、皮膚になる。内側は生命体だが、外側は違う。新宅の内側のみが生命、生の生々しさ、rawであったと考えれば、外側のすべては生ではなかった。そしてその外側と認識される境界は、どんどん内側を浸蝕する。
 また、他者同士の身体が絡み合うことは、皮膚を共有することであり、生命の共有のように見えるが、それは束の間のことだ。

 庄や新宅が何を考えていたのかは、ぼくの外側のことだから、わからない。でも、もしぼくが新宅だったらと想像すると、全裸で人前に身を晒し、暴力的に猥褻な視線とカメラに侵され、絵の具という粘り気のある液体を皮膚に纏うことが、どのような時間であったかを、痛覚を以て想像することができる。それが庄の罹病体験や新宅の過去を通じて共有され、他のダンサーにも伝播することが想像できる。ぼくたちは、生々しさを共有できることでしかつながれない。その発火点として身体は置かれていて、他のダンサーは動くことで痛覚を共有し、かろうじてその意味と重みを受け止められていたのだろう。それが観る者にも共有できる装置として、この舞台の空間と時間が存在した。
 1月12日16:30の回の所見。この日新型コロナウイルス国内感染者数ゼロ。

​   Review                      

近藤 輝一 氏​  (脚本家)

『アプローチ』(『raw』~精神と肉体の展覧会~を観終えて)  無音、  大きく開いた空間に直線状の舞台が、客席を両端に追いやり、真っ直ぐに伸びている。 向かいの客席は煙っている。 ​  この空間を観るときには、この空間にしか目がいかないし、舞台中央にいる彼女を見るときには、 彼女や、その体に纏った色、その足元に積もった、彼女の身体から剥がれ出た、 彼女の一部や、頭を垂れた、背中を丸めた身体の形などにしか目はいかない。 ​  空間はどこまでも空々しくあって、受付係が即物的に動き回り、 観客が座席をもとめて交錯する様子など、なんら外の世界と変わらない。  地下に埋まった阪急烏丸駅から覗く街並みは、自己を一切ひた隠しにしたくなる様な感覚を覚えさせる。  でも、彼女は、人間存在としてそこにいて、皮膚感覚を延長する様に絵具を被り続ける。  僕は彼女を知らないし、人間性に触れていないから、ただ遠い感覚がそう思わせるだけなのかもしれないが、 まったくもって「偉い」事をしている、象徴的存在に見えてならない。    例えば、難しい治水をやり遂げた技術者を称える石像が、風雨や人ごみに晒されているような。 しかし石像と彼女では、決定的に時間の差がある。 ​  石像は過去の人間であり、偉業も過去の物。彼女は現在パフォーマンスを行なっており、まさに今、生きているヒト。 ​  しかしながら、やはり石像めいたイメージを彷彿とさせるのは、 端的に言って、頭から被った絵の具が発信するビジュアルによるものと思う。 ​  ここで一つ補足を加えると、 それは、絵の具という言葉の持つ機能的意味から遠ざかった存在に見える。 ​  「絵の具」と言うには即物的で、例えば、人の知覚する物質観を抽象化させたもの、と、言い変えることもできるかもしれない。 「彼女にとって」という主語が付きまとうが、 やはり彼女も現時間、確実に存在する「ヒト」だから、同じヒト同士では、共感という基礎機能によって、 その状態をたとえ仮想の中でも直に確認できる。 ​  そのビジュアルは、外見上ヒトを物質として認識させうるし、 又、意識的存在としてのヒトを限りなく抽象化させているようにも見える。  動物的、物質的、人間的、といった、ヒトという存在に対する様々な感覚を、そのパフォーマンスから我々はまず獲得する。  「裸になって絵の具を纏うまでは、生きている事を知らなかった」という彼女の言を、逆説的に捉えると、 「絵の具を纏うと、生きている事を知る。」ということになる。 生を確かめるべく、この行為に及んでいるとするならば、現在我々が多角的視点を獲得したという事実に、一つの疑問が生じる。  彼女を取り巻く空間と観客の存在だ。  場内に撮影許可のアナウンスが流れると、観客はすぐさまスマートフォンを取り出し、その光景、とりわけ彼女を写真に納めた。 そのボルテージは高まり、次々と客席から抜け出して、彼女の正面には、人だかりが出来た。舞台公演では、異例の光景だ。  ここで、彼女に象徴としての役割を、観客が規定した。  まだ公演は始まらない。  いや、展覧会は始まっているのかも知れない。  時折、求めるようにして絵の具を掬い取り、自分の身体へ、必然的に塗る。 この行為は、ある種の緊張感さえ、我々にもたらしている。  彼女の「生きる」行為を、衆目の中で、直に、目撃しているのだ。    音楽が、空間に現れた。  そしてまた、観客と彼女の間に、一つの特異な存在が現れる。演技者だ。  彼らは言語を放棄し、意味的表現を嫌っている。 彼らも、ある一つの意味で、一糸纏わぬ姿なのかもしれない。立ち並んだ姿から、非常の何かを感じる。  やがて音楽が水のように客席を満たすと、パフォーマンスは始まる。  黒々とした物質が、彼女と客席の間をうねるように歩いていく。 その存在は、次の瞬間明らかになってみれば、二人のヒトだった。死んでいた人間がさまようように、男女は周回する。 やがて二人のヒトは、一人のヒトと出会い、光を受け渡す。 得た。といってもいいのかもしれない。 光を得た一人は歩みだし、得られなかった一人は、ただそこに、手と足と頭をもったヒトとしてうねり続けている。  驚くべきことに、その二人どちらにも、僕は共感の機能を働かせている。 いや、意味を概念化した言語を介さないから、大脳をパスして小脳や間脳の視床下部へ直接訴えかけられているような、 原始的コミュニケーションを求められ、それに応じてしまったのかもしれない。   そう、コミュニケーションを求められている。 ​  それは、公演という形態が規定した法であり、観客という役割を受け入れてしまった以上、逃れられない状況への固定だ。 演技者が非言語を選択した以上、(少なくともその時間に於いては)我々も非言語で臨まなければならない。 ​  しかしこれはある種当然のことかもしれない。 なぜなら観客は普通黙っているのだから。 しかし、その状況を逆手に取ったレトリックがここに存在する。  好意的に制作側の意図を拡大解釈したように思えるかもしれない。 実際にもそうなのかもしれないが、開演時間を迎え、彼女と空間、演技者を認識した我々には、 ポジティブな思考を促す興奮剤がばら撒かれているように思える。端的に言って「わくわく」する。  光を与えた一人のヒトを、別の演技者たちが取り囲む。そしてそのヒトを認識した。  その中の一人の男が生活の中で、言い変えれば生活感を纏った体のままで光に触る。 ​ 彼は、その光を、まるで特別な拾い物をしたかのように、 逆に、取るに足らないものを忘れ去るように、ポケットへしまい込む。 ​  ここから、彼を取り巻いた世界のストーリーが始まった。  彼は、色を纏った彼女に触れ、空間から存在を感じ取る。 ​  全く隔絶された二人の人間が、どのようにして足掻いて、生きてきたか、どんな絶望を感じていたか。 演技者によって作られた世界(ある所では、社会と捉えることも出来る。)が、二人の悲劇をグロテスクに描き出す。 ​  他人の存在を遠くからでも感じられる現代、しかしそれは、肉体的な柔らかさや、温度を持たず、 あるヒトを、機械的冷徹さで打ちのめす。また、死の実感を感じられなくなった人々の悲しさを感じさせる。 間近で行き交う演技者の一人一人に、だんだんと感情移入していくにつれ、彼の悲しさにも理解が及んでいく。    墓場のシーンとでも言いたくなる場面がある。 物語が終わりにつれて、折り重なる人の掃き溜めが出来あがり、彼はその人間たちを目撃する。 ​  彼はその掃き溜めに自分との同一性を見出し、直感的に死を悟った。生への渇望は、その時に初めて生まれたのかも知れない。  彼は走り回り、ありたけの声を絞って呼びかける。 ​  ここで、観客は初めて、彼の声を聞く。意思を聞く、と言っても良いかも知れない。  呼びかけは虚しく、誰にも届かない。  ここであえて、僕が感じた気持ちを言葉にする。  「そんなに、そんなにしなくたって、いいじゃないか」 ​  それでも彼は走り回る。叫ぶ。痛々しいまでに。こちらの気持ちも掻き毟しられるようだ。 ​  しかしやがて、その想いと、実際的に行った”何か”へ、反応がある。人間たちは、動物へと立ち戻り、自分の死と、生を確かめる。  彼の仕事は、此処で究極的に成功する。  しかし、これは仮定かもしれない。 ​  この演技者達のように、我々もなれるのか、思考の種を与えられる様な場面だ。 演技者たちは、象徴である彼女に触れ、彼女は一人間として、彼らを受け入れる。  肉体と肉体のレベルでは、暖かなコミュニケーションの輪が広がっていく。   彼が彼女に触れた時、また、演技者たちが彼女に触れた時、我々もまた、彼女に触れられる可能性を見出す。 ​  象徴として規定した彼女の存在を、我々自身が壊す。  やがて、皮膚感覚で、隣の席の観客を意識しだした。  肉体同士のコミュニケーションは、男や彼女が感じた生や死の感覚を、生身で感じる事につながった。 だからこそ、「怖い」と感じる場面も多かった。  それが終極的に、彼や彼女に対する理解に繋がるかは分からないが、 皮膚感覚で感じたこの体験を、非言語で、無理解のまま留めておく事に、意義がある様に思えた。  パフォーマンスの終わり、立ち並んだ彼と、彼女の居姿から、 「あなたたちには理解できないだろう」と言う台詞を聞き取った様な気がした。  この壮絶な90分で、何を感じたか、改めて検証させようとする想いを、痛烈に発信した様に思えたのだ。 あとがき  『レビューを』と言って頂いた今回の幸運には感謝したい。 大阪芸大舞台芸術学科で同級だった庄波希とは、共に舞台領域での作品制作を学んできた仲間だったから。 ただ、お読みになってわかる通り、この文章は明確にレビューの形を取っていない。 なぜなら、まず第一に、私は批評家ではない。 そして彼が、(私に都合の良いよう解釈すると)「言語やその他の方法で、自分の作品に客観的視点を得たい」と言っていたから。  私にとって言葉は、絵筆のような存在であり、私は、下手なりにも、自分の作品を形作るものと捉えている。 ツールとしての言語は、ラベリングに代表されるように、その事の是非を顧みず、具体化、単純化してしまう危険性を孕んでいる。  その論から、芸術領域において、言語化を求めない作品作りは多く、殊、身体表現に於いては顕著だ。 そもそも身体表現という言葉自体が、言語表現の存在を認識し、「そうでは無い」「別の」という意味合いを含んでいる。 であるから、このような文章にはご批判のこともあると思う。 しかし私にとって、言語化はラベリングではない。 ある時には、風景を切り取る芸術的手法であり、またある時は思考を掘り、概念の肌触りを得る行為だ。  今回、レビューというより、どちらかといえば戯曲の形を取った。 私なりに、彼の舞台表現へ寄り添った形だ。拙文にここまでお付き合いいただいて感謝の至りだ。 拙文はraw(生)ではないが、彼らの意欲的な取り組みに、興味を持って頂けたのなら嬉しい。 そしてもし、まだ彼らの舞台を観ていないのなら、次の機会には是非、生で、体感してほしい。 (1月12日『raw』千秋楽を終えて 文:近藤輝一)

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