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出来事化。
ダンスに
意味を持つまで

​すきになったの

 こんにちは。私は今ここにいます。それは一体どういうことなのか。と問われても分かりませんがそれでもなおこの問題は常にわたしの前に突き付けられるのです。
 それはそうとあなたは今日何をしていましたか?私は見てしまいました。音楽が流れる。おそらくその音につられているでしょう。
 母は言いました。それに対して疑問を持ちましたが、私はこの歳になってもそれを放置しています。

コンテンポラリーダンスの公演タイトル

作品なんか
つくってどうする。

          ...これはこだわり。

隣に人がいるから…
だから何かありがたいなと
​一緒に踊りたいやん

身体って抽象的やからこそ
身体で生きるって違う意味にも捉えられてしまう
​俺らの身体で生きるってさ、つまり、

俺らの身体で生きるってさ

​ダンサ|でいてください

​オムニバス

ラテン語で「全ての物の為に」を意味、omnibus(全ての)とbus(人々)を込めて

ダンス舞台作品「omnibus」

2024年127日(土)  19:00~
2024年
128日(日)  14:00~
2024年
128日(日)  19:00~

​全3回公演 

会場

(東京都新宿区矢来町158)

構成 / 演出  庄 波希
出演           大森弥子 黒田健太 小堀愛永

                 庄 波希 森田 学 森本圭治

舞台監督     川上 真 

スタッフ     衛藤桃子 井場美穂 ハルヒ 

写真撮影      Akari Takahira

 

主催            HIxTO
協力            京都芸術センター制作支援事業

                  西宮市山口ホール

performers

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​大森弥子

​ダンサー

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​小堀愛永

​ダンサー

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​森田学

​歌手・俳優

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​黒田健太

​ダンサー

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庄 波希

​演出家・ダンサー

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​森本圭治

​ダンサー

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だれにでも備わる身体。いや、身体がなければ思考も、感覚も存在しないから、身体は人間が人間であるための必要条件であるはずだ。その身体が、ダンスとなるときがある。私たち全てに等しく与えられた時間を生きる無数の身体のなかで、ある身体がダンスとなる意志を持ち、そしてダンスへと変容していく。HIxTOの公演「omnibus」は、そうした日常に無数に遍在する身体がダンスへと変化していくさまを、観客に見とどけさせる場であった。

果たしてこれは作品なのか。そもそも、公演タイトルのそばには「作品なんかつくってどうする。」とある。「出来事化 ダンスに意味を持つまで」とも。それは、「作品」の状態にとどまらない、その先にある「出来事」と呼ぶべき表現を目指す意気込みの表明でもあるだろう。

なかなか公演が始まらない。というより、開演の前にあまりにももりだくさんの表現が場に浮遊していた。意識はその状況に反応し、芸術的な経験へとすでに降りはじめていく。「やっと、自分が許せるような、お客さんにみせられるものになりそう」「コンプレックスでいっぱい。ただみんな、個々の問題を全体の問題としてなぜか感じようとしていた」「インプロとはちがう、揺れ動く状況に反応すること。引き出しは外ではなく、内側にあるのだと思う」といった、出演者たちの公演に向ける想いの吐露が、明かりがついたまま正面の壁に映し出されたプロジェクションからあふれ出す。ふつうこの類の裏話は、アフタートークで開示されるものではないのか。この時点で公演の規範の輪郭がゆるみはじめる。それに加え、ダンサーのひとり黒田健太による「みなさま、携帯の電源はお切りください」の前説が醸し出す、抑制された情感豊かな語りのクオリティが「開演」に向かう状況をますます混沌とさせていく。すでに「作品」は、出来事になりつつあった。

意外にも、明かりが全て消え、それを隔てて公演がはじまった。だが様子がおかしい。まだアップしている者。体をほぐしている者。予備動作をしている者など、まちまちなのだ。それぞれが、自分の時間を過ごしている。そこに庄波希がおおげさなヒップホップ風の動きで強制的に介入していく。それが、その場に関与するすべての身体のモードを決定づける合図であった。そこから公演を形づくる統合された身体の意識と、ダンサーが自身の身体をコントロールする個人の意識との、まさに「つなひき」のような関係性が、時間と空間を形づくっていくことになる。

とりわけ次に続く最初のスキットがそのことを明確に示していた。片手を時計のひとつの針のように水平に伸ばして回転する黒田の周囲を、小堀愛永がちょうど惑星と衛星のような関係で小走りにかけめぐる。小堀は、他者の身体をひたすら周回し続ける異質性を生起させつつ、黒田にむかって全く淀みのない自然な調子で会話をし、黒田も普通に日常的な受け答えをする。小堀と黒田の主体的な意識の下で発せられる会話の「日常性のモード」と、統合された表現としての「ダンス的なモード」の共存。しかし、その二重性は完全にパラレルに分離しているのではなく、しだいにその境界があいまいになっていく。最初、小堀の走る速度は、水平に伸ばした黒田の腕の動きに合わせていたようであったのに、次第に小堀のスピードが速まり、黒田の回転する動作のほうが小堀の走る速さに合わせるようになっていく。二人の動きのイニシアティブの受け渡しのようなことが進行しているのだ。小堀の走る円周が徐々に小さくなり、ついに二人はぶつかり、止まる。すると今後は、運動行為の余韻として発せられる二人の呼吸が、表現として立ち上がってくる。強い呼吸、弱い呼吸。連続する呼吸。断片的な呼吸。呼吸はまぎれもなく身体的な行為だ。周回運動から、呼吸へと意識を移させる転換は、非常にスムーズで、鮮烈でもあった。そこでは、場の異化作用と日常とが混在したままの状況を生み出すのに、ダンサーたちの公演的なる集団的身体と、与えられたその時間を生きる個の身体とのたゆまぬ往還に意識が向けられているのだ。

この後もこうした個々の身体と集団的な身体との、同調、合意、抗い、葛藤が続いていく。空間を共有した身体と意識は、干渉し合い、つながり合い、そしてゴムのように伸縮する。しかし決してその絆が切れてしまうことはない。

それは森田学の演劇的な身体と、大森弥子の鍛錬されたダンス的な身体とが織りなすコントラスト的な際立ちのフッテージにおいても顕著にあらわれていた。森田は、高円寺で普段自分が着ない色のマフラーを買ってみたという他愛もないエピソードの語りかけを同じ空間を共有する大森に向けて発してみるが、大森はかすかに視線を向けるものの、自身の身体が形づくる形象の造形に余念がない。森田は自身が語る物語の時間を演じ、大森は身体の内部へと意識を陥入させていく。舞台中央の床にしつらえられた円の形象が二人の動きに動機を与え、二人の身体と意識を引き寄せ合う磁場の役割を果たす。観客の客観的な視界の中で、二人は抑制と奔放、静と動の相反する位相を示し、空間としての均衡と弛緩の美を醸し出していた。

さらにそこには、大森の身体がまとった布地の動きが見せる、鮮烈と呼ぶにふさわしい彫塑的な動きもあった。小柄な細身でありながら、線的な強さと柔軟さを備えた身体の芯を軸に大森が回転すると、体をふんわりと包む薄い衣が遠心力で大きく広がり、その内部にたっぷりと空気を含んだ、ふくよかな円錐形の形象があらわれる。その回転に逆の力が加わると、布地は驚いたように大森の体に巻き付き、厳しく律せられた力強い人体を浮かびあがらせる。その膨張と収縮を繰り返しながら、空間に刻まれるダンスの軌跡は、まさに線描的な造形性を感じさせるものであった。

会場で配られたハンドアウトには、この公演は「シームレスに構成された身体表現と、ダンスになるまでの舞踊シーンの二部構成になっています」とある。この第一部と第二部との間の表現モードの決定的な差異は、観客に対して、あらためて規範に寄りかかって意識の警戒を解いてしまうことを厳しく戒めるものであるように感じられた。

「シームレスに構成された身体表現」の連続の休止によって第一部の終了が提示され、舞台中央にあった人の身長ほどの直径の円が、ほぼ同じ形状の人工的な緑色をしたカーペット状のもので覆われる。第一部に登場していた者たちは、黒っぽいトーンのシックな衣装をまとっていたが、第二部に入ると、舞台には今日ほぼみかけなくなった80年代風のシルエットとカラーコーディネートのスーツを着たダンサーたちが集団となって、入念にコレオグラフされたダンスを踊りはじめる。衣装の感覚は、さしずめルパン三世といったアニメの世界観のようなある種の非現実さだ。近い踊りとしては「Jポップのバックダンサー風の」というべきか。この位相の徹底的な差異の表出は、確信犯的なものであろう。意図されたのは、「コンテンポラリーダンス」というジャンルの「作品」として作られたものを見せる「公演」といった、今日盲目的なハラスメントの様相さえ帯びつつある、威圧的な既存の枠組みへの批評的な相対化の試みではなかったか。

しかしここで大きな問いが立ち上がってくる。彼らはこの「(いまさら)作品なんかつくってどうする」と切って捨ててみせたこの「omnibus」で、いったい何を得ようとしたのか?それは、身体という、人の思考、知性、感情、感覚、心理、記憶といった主体者を決定づける「すべて」を内包した、まさにその主体の実存そのものというべき存在を「資本」とする、ダンスという表現が立ち上がる水際を捉えようという彼らの純粋な思いによるものではないだろうか?踊る自身の身体の内部に、すでにダンスを表現として成立させるすべてが「ある」にもかかわらず、それが表現として立ち上がる瞬間をその本人が克明に観察し、実感することが実は極めて難しいという矛盾。それは、自己の内部へのたゆまぬ省察と、ワークインプログレス的な仲間との対話などの時間を介して、ゆるやかに立ち上がってくるものかもしれない。彼らが今回試みた、軋みや葛藤を芳醇に含んだ取り組みは、見る者にそうしたダンスにまつわる根源的な問いに思いを至らせる。少なくとも既存の規範に身を浸したままそこから何かを引き出そうという意識においては、ダンスという表現の実体は蜃気楼のように遠のき続けるばかりだろう。ダンスの本質が、それに立ち会った者の意識の中に何か意味をもたらすことであるとするならば、そこで問題になるのは「モノ」ではない。「状態」である。だから作品を作っている場合ではないのだ。ダンスは「出来事」を生み出さねばならないのだから。

 

大島賛都 / Santo Oshima

1964年、栃木県生まれ。英国イーストアングリア大学卒業。東京オペラシティアートギャラリー、サントリーミュージアム[天保山]にて学芸員として現代美術の展覧会を多数企画。現在、サントリーホールディングス株式会社所属。(公財)関西・大阪21世紀協会に出向し「アーツサポート関西」の運営を行う。

​concept channel

​ダンス舞台になるまでの『TALK』

​クリエーションの様子とパフォーマーどうしの会話を記録

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