「ウソ」を嘘として扱うこと
作成者 庄 波希
これまで、コンテンポラリーダンスや身体表現をつくる中で、自分自身の身体や、演者の身体や、これまでの人生体験・ダンスの出来事から世界を発見し、それを舞台上に立ち上げることを続けてきました。
身体を起点にすることで、舞台上には「いま、ここにある身体」を提示できる。
それは、自分にとって舞踊の大きな魅力のひとつでした。
一方で、『night』あたりから、少しずつ「虚構」を作品の中に持ち込みたいという欲求が生まれてきました。
自分が経験したことのない世界。
会ったことのない人物。
行ったことのない場所。

『蜘蛛の糸』でいえば、カンダタ、釈迦、地獄、極楽。
どれも経験したことのないものです。
それでも、文学という虚構を通して、それらが自分の身体の前に現れてくる。
最近、このことが気になっています。
演じることは「ウソ」なのかもしれない。
けれど、そのウソを本当らしく見せようとするのではなく、
「ウソ」を嘘として正確に扱う。
そのことに、ひとつの可能性があるのではないかと思っています。
例えば、俳優が「地獄で苦しんでいる人」を演じるとき、苦しそうな表情や声によって、その感情を観客が想像することができます。
けれど、それとは別に、
「カンダタは地獄にいた。」
と、起きていることをただ言葉として置いてみる。
感情を説明しない。
「悲しい」「苦しい」と演じない。
ただ、虚構の中で起きたことを言葉として置く。
その言葉を受け取った身体に、何が起こるのか。
そこに、コンテンポラリーダンスや身体表現が入ってくる。

言葉は虚構を提示する。
身体は、その虚構に触れる。
そのとき、演者の身体は「役を演じる身体」だけではなく、虚構と現実のあいだを通過する、生身の身体になるのではないか。
そして、その出来事を見ている観客の身体にも、何かが起こる。
舞台上に本当の地獄はない。
蜘蛛の糸もない。
カンダタも存在しない。
それでも、観客はそれを見ることができる。
あるいは、自分の記憶や経験の中にある何かと重ねることができる。

そこで初めて、
「見えないものが見えてくる」
ということが起こるのかもしれません。
これまでの作品について、
「隣の人が生きていることを初めて身体レベルで知った」
「今日を忘れない気がする」
という言葉をもらったことがあります。
それは、舞台上に何か新しい情報を提示したということではなく、すでに知っていたはずのものを、別の仕方で身体的に経験したということなのかもしれない。
隣に人がいる。
その人が呼吸している。
自分もここにいる。
今日という時間を、知らない人たちと同じ場所で過ごしている。
そうした、普段は見過ごしているものが、劇場という場所で突然立ち上がる。

だから、「演劇とコンテンポラリーダンスの融合」は、単純に二つのジャンルをただ組み合わせることではありません。
虚構と生身の身体。
言葉と身体。
舞台上の出来事と観客の身体。
ウソとホント。
その境界に何が起こるのか。
それを、作品をつくりながら考えていきたい。
「ウソ」を嘘として正確に扱うこと。
そのとき、逆説的に、生身の身体や、観客の中にある「ホント」が立ち上がる。
今は、そんな仮説を持って創作しています。



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