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「ウソ」を嘘として扱うこと

10月22日
読了時間: 3分

作成者 庄 波希


これまで、コンテンポラリーダンスや身体表現をつくる中で、自分自身の身体や、演者の身体や、これまでの人生体験・ダンスの出来事から世界を発見し、それを舞台上に立ち上げることを続けてきました。


身体を起点にすることで、舞台上には「いま、ここにある身体」を提示できる。


それは、自分にとって舞踊の大きな魅力のひとつでした。


一方で、『night』あたりから、少しずつ「虚構」を作品の中に持ち込みたいという欲求が生まれてきました。


自分が経験したことのない世界。

会ったことのない人物。

行ったことのない場所。



『蜘蛛の糸』でいえば、カンダタ、釈迦、地獄、極楽。

どれも経験したことのないものです。


それでも、文学という虚構を通して、それらが自分の身体の前に現れてくる。


最近、このことが気になっています。


演じることは「ウソ」なのかもしれない。


けれど、そのウソを本当らしく見せようとするのではなく、


「ウソ」を嘘として正確に扱う。


そのことに、ひとつの可能性があるのではないかと思っています。


例えば、俳優が「地獄で苦しんでいる人」を演じるとき、苦しそうな表情や声によって、その感情を観客が想像することができます。


けれど、それとは別に、


「カンダタは地獄にいた。」


と、起きていることをただ言葉として置いてみる。


感情を説明しない。

「悲しい」「苦しい」と演じない。


ただ、虚構の中で起きたことを言葉として置く。


その言葉を受け取った身体に、何が起こるのか。


そこに、コンテンポラリーダンスや身体表現が入ってくる。



言葉は虚構を提示する。

身体は、その虚構に触れる。


そのとき、演者の身体は「役を演じる身体」だけではなく、虚構と現実のあいだを通過する、生身の身体になるのではないか。


そして、その出来事を見ている観客の身体にも、何かが起こる。


舞台上に本当の地獄はない。

蜘蛛の糸もない。

カンダタも存在しない。


それでも、観客はそれを見ることができる。


あるいは、自分の記憶や経験の中にある何かと重ねることができる。




そこで初めて、


「見えないものが見えてくる」


ということが起こるのかもしれません。


これまでの作品について、


「隣の人が生きていることを初めて身体レベルで知った」


「今日を忘れない気がする」


という言葉をもらったことがあります。


それは、舞台上に何か新しい情報を提示したということではなく、すでに知っていたはずのものを、別の仕方で身体的に経験したということなのかもしれない。


隣に人がいる。

その人が呼吸している。

自分もここにいる。

今日という時間を、知らない人たちと同じ場所で過ごしている。


そうした、普段は見過ごしているものが、劇場という場所で突然立ち上がる。




だから、「演劇とコンテンポラリーダンスの融合」は、単純に二つのジャンルをただ組み合わせることではありません。


虚構と生身の身体。

言葉と身体。

舞台上の出来事と観客の身体。

ウソとホント。


その境界に何が起こるのか。


それを、作品をつくりながら考えていきたい。


「ウソ」を嘘として正確に扱うこと。


そのとき、逆説的に、生身の身体や、観客の中にある「ホント」が立ち上がる。


今は、そんな仮説を持って創作しています。




 
 
 

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