HIxTOの「ダンス」と「セリフ」について
作成者 井場美穂
ダンサーが「台詞」を扱うって何だろう

HIxTOの作品では声や言葉も積極的に用います。しかし私は今まで声を扱う訓練などを受けたことがないためか、正直戸惑うところも多く、どうアプローチすればいいのかモヤモヤしていました。
役者や歌い手としての発声法などを学ぶことは、その謎への足がかりや発見に繋がる一つの選択肢になるはずです。それでもいま考えてみたいのは「ダンサーとして声や言葉を使うとき、私たちだからこそできることは一体何なのか」ということです。
言葉を「身体感覚」から扱ってみる
ダンスは頭で深く考えなくとも感覚で動ける。それに対して言葉を発するときは、どれだけ頭をクリアにしようと思っても、やはり言葉の意味が思考を邪魔するというか。直感的にリアクションをするという行為がひどく難しく感じられました。ならば言葉から意味を引き剥がし、ただの音として扱ってみようと試みたこともありますが、あまりしっくりは来ませんでした。
わたしにとって大きなヒントとなったのは、前作「flow」の稽古中に行ったとあるワークでした。
台詞を「相手に何かをする行為」として捉える、というものです。台詞の一文や一節ごとに「押す」「抱きしめる」といった身体的な動詞を充て、その作用を言葉によって実際に相手に起こそうとしてみるのです。台詞の意味や感情から「どう言うか」を考えるのとは違い、言葉に演者本人の意志が伴ってくるのを肌で感じました。
これは何か特別な訓練による賜物ではありません。私たちが何年、何十年と自身の身体と共に培ってきた感覚や記憶に基づく実感でした。
そしてその時、発しているのが意味のある言葉なのかどうかは大きな問題ではないということに気がつきました。私たちがあくまでダンサーとして挑戦すべきなのは、声や言葉を身体感覚から扱ってみることなのかもしれません。

身体を持つ者同士として、何かを起こす
私たちはそうやって“身体感覚”という抽象的な感触を頼りに、演者同士や観客と必死に何かを共有しようとしています。
そんなことを考えていると、かの大文豪トルストイの言葉を思い出しました。彼は『What is Art?』の中で「芸術とは、感情を他者へ伝染させることで、人と人を結びつける営みである」としています。その芸術観は今でも自分の考えに近いものだなと感じ、さらに調べてみると興味深い一節を見つけました。彼は言葉と芸術によるコミュニケーションに言及し、「言葉は思想を伝え、芸術は感情を伝える」と述べています。
そうだ、無理に言葉から意味を切り離そうとする必要はないんだ。言葉には意味が付随していて、でも同時に身体感覚を伝えるように発信することができるんだ。どちらか一方じゃなく、両方が成り立つものなんだ、と何かストンと腑に落ちた気がしました。
ただ一点大事な補足をしておくと、私たちは観客に演者と同じ経験や感情を感じてほしいわけではありません。観客それぞれに違うものが起こっていていいのです。だから最終的には、身体を持つ自分たちが、声や言葉まで身体の側から扱って差し出し、それを同じように身体を持って生きてきた観客が受け取る。その結果として何が起こるのか。そこを探っているのが、今の自分にとっての「ダンスと台詞」なのかもしれません。




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