ヒトとヒトがクロスして描かれる舞台芸術とは
作成者 仙波晃典
このテーマをいただいて、ここに何かを記したいと思う。この問いに答えはなく、これらはちょっとした回想のようなもの。

私が思うには、HIxTOは舞台芸術の”常識”に問いを立て続けている。
”常識”という構造を構成する要素を分解し、分解した要素に問いを立て、さらにその要素を分解し、また問いを立てる。この繰り返しの中で、HIxTOの稽古では分解と分解することによる構築が同時に行われているという事象がたびたび起きる。たとえば舞台芸術の”常識(ここでは踊ること)”を例にすると。”踊ること”を分解すると身体と空間と時間という概念につながる。さらに身体を分解すると、骨や筋肉、皮膚、器官、声帯という物理的な側面から、意識、感覚などの非物理的な要素を発見する。さらに分解すると、物理的な側面では、骨は血液中の必要な栄養素を吸収し、老廃物を排出しながらその時の骨を形成している。非物理的な側面では意識はそのダンサーの身体知やその場の社会性、規範に影響を受けて成立することに気づく。この分解された概念、例えば骨、関節、意識、感覚、社会性、個人性、空間秩序など、ごく当たり前の、その場にある”常識”を再発見したうえで、2人以上のヒトがクロスし、事象を生み出している。その身体性が顕著にでるのは稽古時に毎回行うウォームアップだ。そのウォームアップは、スタート地点からおよそ10m先のゴール地点まで、身体のどこかの部位を意識して動くというもの。はじめはひとつの部位を意識して5回程度部位を変えながら動く、後半はバリエーションを増やして動くのだが、そのウォームアップを見るだけでも、ヒトの数だけ踊りがあるように、多種多様な踊りがあることに気づく。皮膚感覚を頼りに部位を動かす人や、速度を自在に抑制しながら動かす人、感情的に動く人、左脳的に動く人。動く人に感化されて動く人。自己に集中する人、リズムを感覚する人、リズムをズラす人、先ほどの例にした分解された要素、骨、関節、意識、感覚、社会性、個人性、空間秩序が現前しているかのようである。そういった分解された要素で動く"自在な身体"を基軸に据え、作品となる”テーマ”とヒトがクロスしていく。上記は”踊ること”を分解した場合の出来事で、HIxTOは演劇も分解していく。演劇はよく知りはしないが”話すこと”や”演じること”が”常識”であるならば、話すことであれば、発声する声や音、時には意味さえも分解しているように見える。声は、声帯を振るわす振動、音の強弱や、トーン、重さ、軽さ、など分解することで見えてくる非物理的な世界がある。HIxTOはそのような内容も稽古を通じて実験し、声と身体のクロス地点を模索している。前作「flow」では、舞台美術、照明も同じような分解-構築の中で、”テーマ”との合致点を模索し特有の存在を構築していた。そのように舞台芸術の”常識”という構造を構成する要素を分解しながら、それらの要素”そのものを”問題提起したうえで、その混沌から立ち上がってくる「何か」を舞台に置いていく。
そのような側面では、HIxTOはごく当たり前にある”常識”に問いを立てることで、そこにある事象を感覚し、それらの要素がクロスする出来事を起こすという意味で、プリミティブ(根源的・原始的・基本的)な運動であるようにも考えられる。そのうえで、HIxTOは”舞台芸術”においてごく当たり前のことをごく当たり前の事象として、舞台に置くこともあるので、とても面白い。一方、違う側面では、上記のようなプリミティブな運動をしているにも関わらず、SNSやホームページの運営又はデザインが洗練されており、音楽の選定もセンスがあり、現代に生きる私たち(こどもから大人まで)も十分に楽しめる要素が混在しているのがさらに面白い。それは演出家やHIxTOメンバーの時代を感覚する感覚、”常識”の中にあるエッセンスを抽出する感覚、ヒトとヒトがクロスすることを前提としているHIxTOの幅と奥行きのひろさでもあるように感じられる。

ヒトとヒトがクロスして描かれる舞台芸術。
前公演「flow」では、手塚治虫の「火の鳥」を通じて、万物の存在、生命、フロー、歴史、戦争、着ること、食べること、住むこと、産むこと、危機感、受容、平和、循環、今を生きる身体、死ぬこと、生きること等々。実に多くのことをサブテーマに据えて突っ走った。
それぞれシーンにあった役割がある中で、それでも出演者それぞれが、自分自身と向き合い、いち側面にすぎないかもしれないが”己”を生きている感覚も少なからずあった。それがカタルシス(感情浄化)であり、あの時間、あの場の心地を形成していたように思う。
ヘルマン・ヘッセの『デミアン』という小説の中では、主人公ジンクレエルが人生のあらゆる出来事を通過しこの世界を生きる役割を模索する物語の終盤で、こんな事を言う。「この世にある肩書きなどそんな事は本来どうだっていい、真の天職とはただひとつ、自己自身に到達することだ。」 もちろん役割の中に自分は存在するのだが、そのように、物語を通じてそれぞれが生き、舞台芸術を形成していく中で、例えそれが複数人で形成されていたにしても、演者の表現が自己自身/人間自身に到達している("そのもの"に到達している)かのような場面に出会す事もあるだろう。
前作「からだ・からだ・からだ」のシーンでは、身体で語るダンサーの気迫に想像もできないその人自身の生きてきた時間の蓄積を感じ、涙が出た。舞台芸術や身体がもつ可能性は、計り知れない。もちろんそれだけがすべてではないが、言い出すとキリがない。そしてこの回想もまた演じるヒトと観るヒトがクロスして生まれる一つの出来事なのだろう。
大きなテーマを扱いながら、そこにあるささやかなものごとにも優しく、時にはきょうれつにヒカリをあてるHIxTOは、多くの人にひらかれている。つらつらと言葉を連ねてきたのだが、おおよそHIxTOは言葉の追いつかない所にいる。ここまで読んでくださった方で、HIxTOの舞台を経験していない方は、次作「connexion」。ぜひその空間、その場、その時間、ヒトとヒトと"テーマ"がクロスして描かれる舞台芸術 を体験してほしいと切に思う。




コメント