「connexion」とは、一体何なのだろう
更新日:2 日前

作成者 マエダトシキ
他者との関係についての一考察
ー序ー
『なぜ、カンダタは罪人を蹴落とそうとしたのだろう。。』
今回の創作について考えているとき、私はこんな疑問を持った。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では、地獄から抜け出そうとするカンダタのもとに、一本の蜘蛛の糸が垂れてくる。
そして、彼の後を追うように、たくさんの罪人たちがその糸を登ってくる。
カンダタは、蜘蛛の糸が切れ、自分まで落ちてしまうことを恐れ、彼らを蹴落とそうとする。
私は、思った。
「これはカンダタという人間の性格・気質の問題というより、今にも切れそうな蜘蛛の糸という環境に原因があるのではないか。」
そうすると、原作の読み解き方は少し変わってくる。
そしてそれは今回のHIxTOの新作公演「connexion」にもつながってくるのではないか。
そのように思った。
そこで今回は、蜘蛛の糸で極楽へ登っていくカンダタの行動から「他者との関係」について考えてみたいと思う。
※ここで伝えておきたいのは本書は「connexion」について正解を見つけ出すとか、どうやって観劇すればいいという指南書ではないということ。HIxTOでこれまでやってきたことを通じて、いくつかの考えうることについて私の仮説をみなさんの前で披露するだけであるので、善しと思ったらそれを持って劇場へ、悪しきならどうぞ血の池にでも捨てていただきたい。

ー壱ー
まず、
『カンダタは何を求めていたのだろう。』
「蜘蛛の糸」の中で、カンダタは地獄から抜け出すために蜘蛛の糸を登っていく。遠くに見える極楽を目指して、上へ、上へと登っていく。
カンダタは、
「うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。」
と考えたからだ。
カンダタは何を求めていたのか。
それは、原作をそのまま読み解けばもちろん、地獄から抜け出し、極楽へたどり着くことだったのだろう。
では、
『カンダタにとって「極楽」とは何だったのだろう。』
地獄から解放されることなのか。
苦しみから逃れることなのか。
あるいは、今までとは違う何かを手に入れることなのか。
原作では、極楽がカンダタにとって具体的にどのような場所なのか詳しく語られていないが、ただ一つ分かるのは、カンダタは「ここではないどこか」へ向かっていたということだ。
そして、彼はそのために蜘蛛の糸を登っている。
ー弐ー
ここで、冒頭で出した問いに戻ってみたい。
『なぜ、カンダタは罪人を蹴落とそうとしたのだろう。。』
カンダタが蜘蛛の糸を登っていると、下から数限りない罪人たちが同じ糸を登ってくる。
カンダタはそれを見て、
「この蜘蛛の糸は己のものだぞ。」
と叫ぶ。
そして、罪人たちに「下りろ」と言う。
その理由として考えられるのは、蜘蛛の糸が切れてしまうことへの恐怖だ。
自分一人でさえ切れてしまいそうな細い糸に、何百人、何千人もの罪人が登ってくれば、糸が切れてしまう。そうなれば、自分も地獄へ逆戻りしてしまう。だから、他者を排除しようとした。
これは、原作を読むうえではごく自然な解釈だと思う。
でも、私はここで少し立ち止まってみたい。
もし、この蜘蛛の糸が何人登っても絶対に切れないものだったら、カンダタは他の罪人を蹴落としたのだろうか。
もし蜘蛛の糸が全く別の頑丈な物だったら、カンダタの行動は変わったのだろうか。
そう考えると、カンダタが罪人を蹴落とした原因は、彼自身の性格や気質だけではなく、“蜘蛛の糸”という環境そのものにあった可能性も見えてくる。
一人なら上へ行ける。でも、他者が増えれば自分が落ちる。そんな状況に置かれたとき、人は他者を敵として認識してしまうのではないか。
これは、社会の構造にも似ているように思う。
限られた資源。
限られた場所。
誰かが得れば、自分が得られなくなる。
誰かがそこに入ってくれば、自分の場所が脅かされる。
そういう構造の中に置かれたとき、人は冷静に判断できるのだろうか。人間が他者を排除するのは、人間の性質だからなのか。
それとも、他者と共存できないような「構造」を与えられたからなのか。
そして、もう一つ気になるのが、カンダタのこの言葉だ。
「この蜘蛛の糸は己のものだぞ。」
なぜ、この糸はカンダタのものなのだろう。
自分の真上に垂れてきたから?
自分が最初につかんだから?
それとも、自分に与えられたものだと思ったから?
自分のために垂らされた糸だと思った瞬間、それは「自分のもの」になった。そして、その「自分のもの」という認識が、他者を排除する理由の一つになったのだとしたら、所有するということは、他者との関係をどう変えてしまうのだろう。
ここにも、カンダタ一人の性格だけでは説明できない何かがあるように思える。
ー参ー
ここまで考えてみると、もう一つの問いが生まれる。
『では、どうすればカンダタは上へ行けたのだろう。』
蜘蛛の糸がもっと太ければよかったのだろうか。
何人乗っても切れない構造だったら?
「自分のもの」という所有の意識がなければ?
他の罪人たちと一緒に登ることができていたら?
あるいは、そもそも上へ行くという構造そのものが違っていたら?
ここで考えたいのは、カンダタが「良い人」になれば解決する、という話ではない。
むしろ、人と人との関係や、その人たちが置かれている状況そのものが変わることで、行動は変わるのではないかということだ。
HIxTOでは、2人以上が関わる状況そのものを「社会」と捉えている。
そう考えるなら、カンダタと罪人たちの間に起きていることも、一つの「社会」ということができるだろう。
カンダタ一人なら、ただ最後まで蜘蛛の糸を登っていればいいだけだが、そこに他者が現れる。
すると、上を目指すカンダタの身体や行動に変化が起こる。
下を見る。
驚く。
恐れる。
そして、他者を排除するために声を上げる。
一人の身体の変化が、他者の身体や行動に影響し、またその行動が自分の行動を変えていく。
他者が存在することで、自分の行動に何かしらの変化が加わる。
それは、良い影響になることもあれば、悪い影響になることもある。
誰かとつながることで救われることもある。
でも、誰かとつながることが、自分の自由や安全を脅かすこともある。
「connexion」とは、一体何なのだろう。。
ー結ー
ここまで、他者との関係について、いくつかのことを考えてきた。
カンダタは、地獄から抜け出し、極楽へ行こうとしていた。
けれど、他者の存在によって、カンダタ自身の行動に変化が起きた。
それはカンダタ自身の性質によるものだったのかもしれない。
あるいは、今にも切れてしまいそうな蜘蛛の糸という環境が、彼をそうさせたのかもしれない。
「この蜘蛛の糸は己のものだぞ」という所有の意識が、他者を排除させたのかもしれない。
だとすれば、カンダタが上へ行くために必要だったのは、彼自身の心を変えることだったのか。
それとも、彼を取り巻く環境や、他者との関係そのものを変えることだったのか。
他者とつながることは、救いなのか。
それとも、自分を脅かすものなのか。
つながることで、人はともに極楽へ行くことができるのか。
あるいは、つながることそのものが、何かを変えてしまうのか。
演出の庄波希は、
なぜ「connexion」というタイトルをつけたのか。
私はまだ知らない。




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