「ヒトとヒト」の話について

作成者 衛藤桃子
『night 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より』と『flow 手塚治虫「火の鳥」より』を振り返って
〜ヒトとヒトが関わり合うことで生まれた作品について〜
『night』に出演することになった時、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読み返しました。
幼い頃に読んだような記憶はありましたが、大人になってから改めて読むと、以前とは違うところに心が留まりました。
「本当の幸い」とは何なのか。賢治の「求道すでに道である」という言葉は、何かを成し遂げた先に幸せがあるのではなく、「よく生きよう」と考え、歩み続けることそのものが、すでに幸せなのだと言っているように感じました。
私たちは、目に見える成果を追いかけながら生きています。何を得て、どこまで行けたか、誰よりも優れているか。知らず知らずのうちに、競争するように生きてしまいます。
でも、本当に大切なものは、結果として手に入るものだけなのでしょうか。
「本当の幸い」という言葉を読んだ時、もっと、今あるものを噛み締めてもいいのかもしれないと思いました。
一方、『flow』で私は手塚治虫の作品に初めて触れました。そこに描かれていた「欲望を満たすために永遠の命を追い求める姿」や「生きることへの執着」は、今を生きる私たちの中にもあると感じました。
けれど、今は、ただ長く生きることだけではなく、何を経験するのか、どんな人と出会うのか、どのように生活の質を深めていくのか。「よく生きる」ことに価値を置くようになっているように思います。
ここでいう「よく生きる」とは、欲しいものを手に入れ、物質的な欲求を満たすことでも、自分だけを大切にして自己実現を目指すことでもないと思っています。
他者との関わり合いの中で、何を経験し、何を考え、それをどのように手渡していくのか。見返りを求めるのではなく、自分の中に生まれた喜びや感動が、誰かとの間で共鳴していくこと。
私にとって「よく生きる」とは、そういうことなのかもしれません。

そんな私の視点から、『night』と『flow』それぞれの上演に向けて、物語を自分たちの身体を通して立ち上げた数ヶ月を振り返り、HI×TOが創る「ヒトとヒト」の話について書き留めてみたいと思います。
『night』も『flow』も、宮沢賢治や手塚治虫という、私たちが生まれるよりずっと前に生きた人たちの作品を起点にしています。
けれど、それらは過去の物語をそのまま再現するものではなく、ミュージカルでも、いわゆる2.5次元作品でもありません。
文学を、言葉とコンテンポラリーダンスという身体表現を通して、今を生きる私たちの傍にある話として立ち上げていく作業です。
そこでは、役者とダンサーの境界も、はっきりとは分かれていません。ダンサーも声を扱います。舞台上で発せられる言葉が身体を超え、身体もまた言葉を超えていく。
そうすることで、物語の中に生きる人間と、今を生きている私たちとの間に、時間を超えた接続が生まれていくのだと思います。
そして、その接続をつくるのは、元となる文学作品だけではありません。
プロジェクトごとに集まったメンバーも、その大きな要素です。
『night』では28名、『flow』では24名が出演し、その約半数がオーディションで加わりました。それぞれが違う場所で、違う経験をして、違う身体や考えを持ってやってきます。
作品には、道標となるテキストがあります。でも、そのテキストをどう受け取り、どう肉付けしていくのかは、一人ひとりの経験や感覚に委ねられることが多い。
HI×TOにいると、自分自身のナラティブな部分と対峙する機会に遭遇します。
ある時、「それぞれが誰かを想って動いてほしい」と演出の庄波希くんから伝えられたことがありました。
具体的な振付や指示はありませんでした。だからこそ、私たち自身が何かを思い、アクションを起こし、そこで他者との間に生まれる反応が作品になっていくのだと、私は捉えています。
その時、私は、亡くなった祖父を思い浮かべました。
不思議と、嬉しかったです。もう会うことのできない人と、もう一度つながれたような気がしたからです。一方で、亡くなった人に思いを寄せ、すがるような自分に、少し後ろめたさもありました。
それでも、その人を想って動く。
群衆の中で、それぞれが誰かを思い浮かべている。その光景は、死者を想うことと、今を生きることが切り離されたものではないように感じさせました。
誰かを想うことで、自分が今ここにいることを、むしろ強く感じたのです。
『night』と『flow』をつくる過程で、私は、違うからこそ面白い、ということも何度も感じました。
分からないから、知りたくなる。
知ろうとするから、歩み寄る。
その繰り返しの中で、一人では生まれなかったものが生まれていく循環が、HI×TOでは起きているのだと思います。
ある意味、整然とまとまることがないと言ってもいいのかもしれません。
出演者全員が最後まで一つの方向に揃っていくわけではない。でも、私はそこにHI×TOの作品の強さを感じています。
「みんなで一つになる」ことだけが、作品の美しさではありません。
違ったまま、それぞれが自分自身に嘘をつかずにいること。その覚悟を、作品をつくる中で少しずつ強固にしていくことに、HI×TOの独自性があるように感じています。
そして、その作品を観る人にも、何か一つの感情を押しつけるのではなく、それぞれの生き方の中で受け取ってほしいと思います。
「こういうものを見たら、きっと感動するでしょう」と、観客の感情を誘導するのではなく、作品を観た人が、自分自身の中にあるものを、自分自身で感じられるような作品。
本番の客席で、子どもたちが身を乗り出して作品を観てくれていたことを覚えています。セリフを口ずさんでいる子もいました。
子どもだから分からない、大人だから分かる、ということではないのだと思います。
子ども向けに簡単にするのでもなく、誰かに合わせて答えを用意するのでもなく、年齢や立場を越えて、それぞれの人がそれぞれの場所から出会えるものをつくりたい。
あの時のわたしたちは、そんなことを考えていたのだと思います。

『night』、『flow』が終演して、少し時間が経ちました。
あのとき一緒に作品を創った人たちは、今もそれぞれの場所で生活しています。客席にいた人たちも、きっとどこかで、それぞれの日々を生きています。
宮沢賢治や手塚治虫が生きた時代から、変わらない悩みや欲望の中で、私たちは今も生きています。そう考えると、私はひとりではないのだと思います。
それでも、ときどき考えます。
変わらないことや、どうしようもないことに向き合い続けることに、意味はあるのだろうか。自分は、誰かや何かに、少しでも変化をもたらせているのだろうか。私は、ちゃんと「よく生きる」ことができているのだろうか。
たぶん、今の私にはまだ答えはありません。
でも、『night』や『flow』を振り返って、やはり強く思うのは、「よく生きる」ということは、何か目に見える成果を残すことではなく、誰かと出会い、何かを感じ、考え、また誰かに手渡していくことということです。
作品は終わっても、そこで交わしたものが、それぞれの身体や記憶の中に残っていく。そして、いつか別の場所で、別の誰かとの間に、小さな変化として現れることがあるのかもしれません。
それは、とても静かなことです。数字にも、成果にもならないかもしれません。
けれど、そういう小さな変化を見つけながら生きていくことを、私は大切にしたい。
変えられないことを悔やみ続けるのではなく、変わっていくことの中にある小さな変化を楽しみながら、誰かとの関わりの中で、自分なりの「よく生きる」を探していきたいと思います。
『night』と『flow』は、作品としては終わりました。
けれど、そこで出会った人や物語とのつながりは、今も私の中に残っています。
もしかすると、「求道すでに道である」というのは、こういうことなのかもしれません。




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